とうとうというかようやく落とし所に近づいて来たようではあります。
つまり佐野る作の五輪エンブレムを取り下げたということではありますが、
世間さまではまだそれでは完結とはなっていないようであります。
なにしろ五輪委員会も、審査委員会も責任を回避しているし、
佐野るご自身も「それでもぼくはやってない」と言っているわけで、
今後賠償問題等が気になるわけなのですね。

それはさておき、佐野ると同じ業界にかかわるものとして(デザイナーじゃありませんが)、彼の擁護を考えてみました。
とはいえ、初めてエンブレムが公開されたときに、さほど深い印象を持たなかった・・・・・・
というよりもなんとなく古いというか、昔の五輪ロゴの派生のような気がしたのですが、
それもそのはず、一説によれば佐野る氏は1964年東京五輪で亀倉雄策氏がつくったロゴを凌駕できないと苦心したとかしなかったとか。

さて、広告業界において、盗作問題や剽窃問題はちょいちょい発覚します。
あるいは、本当にパクリとかしていないのにふたつの広告が瓜二つであったというようなことも稀に起こります。
かつてふたつのまったく異なる地域で制作された雑誌広告が酷似していたとして話題になったことがありましたが、その時はまったく剽窃などではないということで決着したと記憶しています。

同世代に暮らしている同世代のデザイナーがよく似た感性を持っていて、同じような情報を糧にしていたとしたら、同じような発想をしてもおかしくありません。

まぁ、そのような稀なケースは別としても、広告やデザインが氾濫している現代には、よく似たデザインのものは
あちこちで見受けられますね。具体的には……すぐには思い出せませんが。

よく似たデザインになる理由は大きく二つ考えられます。
ひとつは、その時々の流行のようなものがあるということ。
同じようなモチーフ、流行のフォント、どこかで海外でヒットしたレイアウトなど、多くのデザイナーがそういうものを共有して追従してしまうわけです。流行のデザインはあっちでもこっちでも似たようなものが現れるので、もはやどれがオリジナルだったかわからなくなるし、むしろそれが世の定番として定着します。二十数年ほど前に流行ったタイポグラフィー表現なんかがそれですね。

もちろん心あるクリエイター という生き物は、常に新しいデザインを求めようとするわけで、
ここに二つ目の理由となる落とし穴があるんです。
誰かが生み出した斬新なデザインはクリエイターを刺激するでしょう。
そうすると同じようなデザインを追求するためにまずは模倣してみるというのは定石。ただし、パクリではなくてンスパイアされたという範疇で。
ところがインスパイアなのかパクリなのか、そのあたりの線引きはとてつもなく曖昧なわけで、
ちゃんとした心得のある人間であればぎりぎりの模倣から新しいものを生み出すことだってありうるのでしょうが、そうでなければただ模倣しただけとなってしまう。このようなモノマネデザインは世の中にゴマンとあります。

デザインであれなんであれ、なにもないところから新しい表現物を生み出す場合、よくあるのが
「ほらほら、こないだ見た映画の中に出てくるあれ。あんな感じ」 とか、
「たとえばルソーの描いた絵画みたいな~」とか、
既にあるものにインスピレーションを得てなにかを生み出そうとするのはよくあること。
それをそのまま鵜呑みにして進めてしまうと、当然ながら映画や絵画のそれとよく似たものができ上ってしまうわけで、それをパクリというのかインスパイアと言うのかは、見た人の直感もさることながら著作権保護法で取り決められた基準というものがあったりするわけです。

そこまでの話じゃなくても、通常、プレゼンテーション用のカンプをつくる場合、
そのデザイン素材を雑誌やネットから引っ張り出して利用するという作業は昔からよくある話。
もちろん決定後にはすべての素材をオリジナルのものに置き換えるわけですが、
なにかの間違いで、そのまま使ってしまった! という事故が起こらないとは限らない。

たとえばコンプライアンスとか著作権法とかから程遠い工房に棲んでいるようなスタッフに仕事をゆだねた場合、彼は言われた通りの物を忠実に再現するために元ネタをトレースするかもしれない。
ネットから取り出した画像を版権フリーの画像と思い込んで遣ってしまうかもしれない。
元ネタ通りに被写体をレイアウトして写真を撮る間もしれない。
元ネタとそっくりに仕上げることこそが使命だと思えばこそ、同じようなレイアウトにするかもしれない。
こうしてでき上ったものは、それなりに完成度が高く見えるし、ずっとその仕事に取り掛かっている人間にとって、もはやそれが自分たっちのオリジナルであるかのように錯覚して、そのころには元ネタがあったことすら忘れてしまっている。

あるいはちょっと前に目に触れた素晴らしいデザインがとても印象的で、すっかりお気に入りになって頭の引き出しに収納されている。そういうのはなにかの折りには必ず出てくる。
もう一度写真で確認してそれをトレースするということもなく、記憶の中にある印象に基づいてオリジナルデザインを生み出そうとする。これは概ねインスパイアというものだと思うけれど、元の印象が強ければ強いほど、元ネタに近いものとして再現される。だが、いったん自分の中をスルーしているのだし、できるだけ似ないように意識をして作り上げていくうちに、自分の中では全く違うものとして出来上っていく(と信じはじめる)。
ところが、他者から見れば明らかに元ネタとそっくりな印象を受けるものになるに違いない。
こうして出来上がったデザインを人はパスティーシュ(模倣)とするだろうか、それともオマージュ(再構築)だと思うのだろうか。

さてはて、ずいぶん緩慢な話になってしまったけれども、佐野るの話に戻るとすると、
サントリーほかの、”剽窃”とされているアレについては、どうやらネットの簡便さに慣れ、著作権法から程遠いところに棲んでいるスタッフに任せてしまったことが原因のようで、本人も認めているのだからもはや擁護のしようもない。スタッフも佐野る本人もともにそういうことを慣習化してしまった結果だろう。

方や五輪エンブレムについては、原案が公表され、さらにそれがヤン・チヒョルト氏のデザインに酷似しているということが発覚したことを前提に考えれば、佐野るの脳内に収められていた印象がそのまま形になっていまい、さらにはおそらくは同じ作品にインスパイアされて生まれたかもしれないベルギーのリエージュシアターのロゴに偶然似てしまったというところではないだろうか。

ここまでは佐野るを擁護すべく書いてみたが、しかし、ここで、自分の頭を通過して再現された原案がヤン・チヒョルトのものとほとんど変わらないのではないかと気づかなかった時点で、あるいは気づいていたのにこれは大丈夫なんだと自分を信じ込ませてしまったところが情けないというか、日常からスタッフとともに模倣あるいは他人の作品のいいところ取りに慣れてしまったという体たらくのせいではないのかな。

なにかまとめるとすると、
今回のこの事件は、佐野る氏一人の問題なのではなくって、
デザイン業界が内包するパクリもしくは他者のイメージを一時借り受ける慣習による弊害と、 
もうひとつは、有名デザイナーと呼ばれる人たちの間で繰り広げられる持ちつ持たれつの利権慣習が確かにあるという事実、
この二つがクローズアップされたということではないでしょうか。

これで、佐野る氏の擁護になっている……なっていないよねえ。